最新のハマブンカフェ

○ 第19回ハマブンカフェ  6月25日午後4時より
  テーマ 「文学とジャーナリズム」        (リモート会議)

参加は16人。会員には小説家もジャーナリスト経験者もいて、フィクション、ノンフィクション、新聞・雑誌記事の相違について活発な意見交換があった。またヨコハマ文芸の編集方針という身近で現実的な問題が取り上げられた。
・司会からオスカーワイルドの格言が紹介された。「文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。ジャーナリズムは読むに耐えない。文学は読む人がいない。それがすべてだ」 
・文学はフィクションでもいい。だが、ジャーナリズムは真実を追求する。小説はフィクションのはずなのに、ハマブンの編集はちょっとした事実関係にも突っ込んでくる。それが気になる
・フィクションと間違いは違う。小説は作り事であり、最初から現実にあり得ないような幻想小説なら何を書いても構わないが、現実を踏まえて書いたような小説ならフィクションであってもでたらめでは許されない。編集責任がある。
・ジャーナリズムの文体と文学の文体は違う。ジャーナリズムの文体は漢字が多すぎないこと、かなで書いてわかるようなことはかなで書くこと、長い文章はだめで簡潔に書くこと。そんなことを若い頃に叩き込まれた。小説家がジャーナリズムの現実として立ち向かう相手は校閲者だ。校閲には独特の小宇宙と法則がある。雑誌の場合は編集者だ。そういう人たちとよく対立していた。
・本を出すに当たっては編集者や校閲者のチェックのあと自分がチェックし発売となる。自分に問題はない。
・ジャーナリズムは殺人事件があった場合、犯人は悪者だと一面的に扱われるが、小説は必ずしもそうではない。犯人の立場で書くこともできれば周りの人の立場で書くこともできる。ある歴史作家は記録が乏しい古代中国の歴史小説を書いたときは80%想像だったと言っている。そこがジャーナリズムの突っ込めないところだ。
・ジャーナリズムが一面的に表層しか捉えないというのは現実と異なる。連載記事として、犯人の生い立ちからその後の成長過程、殺人に至った経緯を多方面から理解し公表する場合もある。
・知り合いの放送記者が、世間が期待していることをジャーナリズムはやらなければならないといっていた。
・昔はおかしなやらせがあったが、今はない。
・かつて女児連続殺人事件の犯人の報道で、犯人がこのような犯罪を犯すようになったのは親が働いているから子供がそうなったのだという新聞記事があった。新聞が事実を報道するのならどのような根拠でそのような判断になったのかを示すべき。頭に来たので新聞社に対し質問したが返事はなかった。
・文学として読むときは読む人がこれは創作だと分かるようであればいい。読者に混乱を起こさせないようにしなければならない。
・中学校で教師をしていたとき、授業で新聞記事を作らせたことがある。バラバラの情報をメモにしてできるだけ多く書き出し(中にはよけいな情報も入れながら)、その中から正確な情報を選び、どうともとれる曖昧な情報を排除するという選び方をする。選ばなければことばは役に立たず、選んでつなぎ合わせて自分たちの考えを表現することができるという経験をさせた。
・工事現場で育つ小さな1羽のコチドリの雛を観ても、事実をそのまま受け取り、感情を差し挟まず「今年はここで1羽の繁殖に成功した」と思う人と、「かわいそうだから、雛が飛べるまで工事を中断して欲しい」と談判しに行く人がいる。この違いは「思い入れ」なのだ。思い入れに個性が表れてくる。人の思いというものはすごいと思った。
・文学とジャーナリズムというテーマだが、このジャーナリズムはマスメディアのことではないか。ここは区別しなければならない。例えばウクライナとロシアの関係を近代社会だけでは片づけられない数百年来の思いを伝えるのがジャーナリズムだと思う。たまにはそういう記事もある。それに対し小説は何でもいい。ただ嘘を書いてはいけない。嘘をつかない範囲の奇想で楽しく刺激的に共感を読者に与えながら新しい世界を示していくのが文学だと思う。
・先般ヨコハマ文芸の6号で岡本行夫の新刊を紹介する文を書いた。そのとき「ファン」と書いたのを「支持者」にハマブンの編集部から直された。岡本行夫を客観的に説明するのに「ファン」はふさわしくないという指摘だった。自分に客観的に書く訓練ができていないせいもあるが、逆に「ファン」と書いたのは単に支持者ではない思いが入っていたのだと気づかされた。そこで考えたのは、ジャーナリズムは客観性に重心を置き、文学は主観、個性、共感性に重心を置いていくということだ。例えば中上健次の作品は、蒸留水のような文では表現できない。
・若い時にフランクルの「夜と霧」を読んだが、今読むと違って読めるのだろう。陶芸の先生がモニュメントを制作していた時「強制収容所にもし窓があったら君たちはどう思うだろう。僕は新しい風を入れたい」と言った。「夜と霧」は今も通用しているが、新しい風を入れるということが、ヒントになるかなあと思っている。コロナとかウクライナの戦争とかがダブってくる。
・世の中が物騒になっていて暗いニュースばかりだ。ある小説家は軍国少女だったという。自分が小説を書くときは、世間の風潮に流されない自分らしい視点で書いてみたい。戦争と平和を考えてもニ択しかなく正反対ものもを決めなければならない時があるらしい。間違った選択をしたらどうなるのだろうかと思う。このままで良いのだろうかと思う。もう少しまじめに生きていきたいと思う。
・文学は作品の責任を作者自身が受けて立つものなのだろう。ジャーナリズムは組織があり背景となる事情がある。
・ジャーナリズムとノンフィクションは別ものだ。
・新聞記者は事実を追っていく。追っていくと、事実と事実の間に溝があらわれる。しかし新聞記者はフィクショでンその溝を埋めることができない。小説家はいいよなあと仲間内で話したものだ。
・時代小説が好きだ。横浜市内に大名がいたことがあまり知られていないのでいずれ書きたいと思っていた。こだわりは、フィクションの部分と事実は切り分けること。当時育てていた野菜を想定したとき、キャベツやトマトではだめ。白菜や瓜だろうとなる。十手も朱色だけではない紫の紫房の十手もあった。主人公が通った山道を想定して実際はバスで行ってみるとか。草鞋の結び方を間違えたら恥ずかしいと思っている。食事の食べ方にしても、当時は家族そろって食べるのか。上級武士と下級武士では違いがあったのではないか。そのへんでごまかしもあり、それを楽しんでいる。フィクションを書いているある小説家と話したが、その人はものすごく取材している。どこまで事実関係を調べるかは作家の姿勢の問題だと思う。
・背景としてのリアリティは間違えてはいけない。どう体験するかが作家の個人的な問題。
・嘘を書くなら細かいところまで調べて書かないと崩壊してしまう。
・記事を書くときとエッセイを書くときとの切り口の違いは、記事は事実そのままなのに対しエッセイは楽しんで貰いたいという意識が先に立つ。
・新聞記者は取材で隠れていた事実を発掘しようとする。それが喜び。ノンフィクションとジャーナリズムの区別は難しい。ニュースを深く掘り下げてみようとすると新聞は連載ものとなる。私が女房から肝臓を貰った話はノンフィクションだが、雑誌にも書いていて分けることができない。ノンフィクション作家には元新聞記者がいっぱいいる。小説家でも井上靖は長いこと新聞記者をやっていた。藤沢周平も業界紙の記者をやっていた。
・小説に構想が必要なようにジャーナリズムにも仮説や構想が必要だ。取材するにも仮説があって裏付けを取る。取材の結果が仮説と違う場合でも仮説に執着すると誤報につながる。仮説にこだわらない態度も必要。
・フィクションと嘘は同じだろうか。フィクションによって事実を伝えたり、事実を発見するためにフィクションを使うことがある。新聞記者が取材で新事実を発見することを楽しみとするように、小説家にはフィクションによって発見する楽しみがある。嘘という切り口でフィクションを語ると嘘だらけになるが、フィクションがすごいのは事実の先を行くことだ。SF然り。小説も。それが文化を牽引する。こんなことがあってほしいということ。それが創造性ではないか。
・若い頃の村上龍がいつも時代の一歩先を書いていた。作家のすばらしさはそんな先見性にもある。
・ノンフィクションは削るフィクション、通常のフィクションは付け加えるフィクションではないか。ウクライナ戦争の報道も削ることで成り立っている。
・何かを書こうとするとき、あとから削るような情報は最初から取らない。拾い集めた情報から書きたいものが一番はっきり見えてくるような書き方をしている。イメージだけで原稿用紙400〜500枚程度に膨らませてしまうと私の場合は収集がつかなくなる。
・何を書くかは誰かに共鳴して貰いたい、賛同して貰いたいという気持ちが一番大きなモチベーションだと思う。
・事件に対し記者は客観的な立場に立たなければならないとしても、やはり気持ちが入ってしまう。現場に行き子供が殺されているのを見ると、こいつは絶対許せないという感情が動く。(文・芦野信司)

○ 第18回ハマブンカフェ 4月23日午後4時より
 テーマ 「自分の本を出す喜びと不安」      (リモート会議)


・参加は19人。ゲストに冬花社代表の本多順子さんをお迎えし、文芸書出版の現状を教えていただきました。また、出版経験のある会員も多く、実体験で得た喜びと後悔について具体的かつ率直な発言があり、出版経験者はもとより今後出版を考えている参加者にとっても有意義な語り合いになりました。
・本多さんの話
 文芸書の自費出版と商業出版の違いは、今は無いに等しい。商業ベースに乗るには最低でも3,000部を購入する読者が必要。地方の書店まで出回るには数千部が必要であり、売れるコツは話題性だ。賞や広告はほとんど影響がない。印税は10%あればいい方で5%,3%の場合もある。自費出版でも色々な形式があり、たとえば1,000部出版したうち300部は作者が買い取る方法などがある。自費出版でもISBN(国際標準図書番号)のバーコード付きで書店やアマゾンで売ることができる。費用は作者がどういう本を作りたいかで大きく変わってくる(百数十万円〜三十万円程度)。編集や装丁に凝った上製本なのか、オンデマンドで簡単に作るのか。あるいは電子書籍として出すという方法もある。
・会員の経験
 会員の出版物で「売れ」た経験が語られたのは、日本エッセイストクラブ賞を受賞した裁判官の新書、精神医学者の専門分野の新書、香港の中国返還ブームに乗った香港在住記者の本。多くの出版経験者は自費出版であり、売れないで結構な部数を引き取る結果となった。出版社の営業トークには要注意。文学賞では出版社主催の出版確約の付いた賞が狙い目(ただし受賞しなければならない)という説もある。
・電子書籍について
 電車内の乗客の風景が変わった。昔は本だったが、今はスマホを見ている。紙の読者が減って電子書籍の読者が増えているのでは。電子書籍は文字の拡大や検索が可能で、会員になれば無料で読める場合がある。自費出版も電子書籍が増える可能性がある。しかし、書店に並ぶ本の中に自分の名前を見いだす喜びも捨てがたいという意見があった。(文・芦野信司)

○ 第17回ハマブンカフェ  2月26日午後4時より
  テーマ 「情報機器と私たち」    (リモート会議)

参加は10人。
パソコンやスマホで不特定多数の人が繋がるようになって、コミュニケーションの仕方が以前とは明らかに違ってきている。便利になった反面、情報機器への依存や深く理解する能力の低下などが懸念されている。また、車のAI化がエンジンの起動を困難にするなど、便利さの追求がかえって不便をもたらす事例もある。しかし、コロナ禍でもハマブンカフェが開催可能なのはリモートのおかげであり、国際化で世界の各国に住んでいる家族が無料で毎日顔を見られるのも発達した情報機器のおかげである。この便利なテクノロジーの発達の流れは止められないだろう。ロシアのウクライナ侵攻のニュースは、即時世界中に発信される。だが同時に膨大なフェイクニュースやフェイク映像も発信される。旧ソ連が崩壊した原因の一つが、西側諸国の経済発展を映し出すテレビの普及であるとも言われており、為政者による情報のコントロールが効かなくなっている。AIが人類の知能を超えるシンギュラリティは2045年に起きるといわれており、どのような世界になるのだろうか。(文・芦野信司)