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通称「ハマブン」横浜を拠点に文芸活動  地域への文化貢献を目指す
 
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23第23回ハマブンカフェ テーマ 「フリートーク 」   11月
参加者10名
ハマブンの広告主から購入したワインを飲みながらフリートークといたしました。
会員のフランス在歴20年の大原さんのお話、同じく海の男稲田氏の話などで
盛り上がりまし機会には皆様ぜひご参加くださいませ。

          
第22回ハマブンカフェ テーマ 「文学のことばと作者」   6月29日午後4時より

(横浜駅東口ルミネ7F「アジオ」) ・参加は6人。
【エモいことば】  若者が使うことばで「エモい」があります。国語辞書にも載せられていてその意味は多様です。
心が揺さぶられて何ともいえない気持ちになることが大きな意味でなり、
古語の「もののあはれ」に近いようです。また、「エモい」の語原は英語のエモーショナルだそうです。
書き屋を自認している我々が意識していないところでことばが生まれています。
現代の小説にはそのようなことばで書かれているものもあります。詩人が命と思うことばがある反面、
ギャル語のようにどんどん変化することばがあるわけです。  これについては、次の意見が出ました。  
若者ことばが十年後に残っているとは限らない。  ことばに注釈を入れなければ読者に通じないようであれば日本語として困ったことだ。
 会話文で使う分には世代や時代性を表すことばとして使える可能性はあるが、地の文はなるべく読者にわかりやすいことばを使うのがいい等。
【小説とエッセイ】 新聞記者時代はルポやドキュメンタリーを書いていました。今はエッセイを書いていますが、
あくまでも事実を書かなければなりません。
事実を書くということは大変なことで、ただ材料を集めればいいということではありません。
エッセイといえども一つの作品なので、突っ込んだ表現をしたくなります。
一方で事実しか書けないという制約があります。その点、小説ならその束縛を乗り越えられるのでうらやましく思うこともありました。
エッセイは無駄を書けないが、小説は無駄なところが面白い。総じて、
小説家はエッセイが書けるが、エッセイストが小説を書けるとは限らない。
それは、事実と事実以外の部分を組み合わせるのが難しいからだと思います。  
今は小説を学んでいるがその前はエッセイ教室に行っていました。
そこでの経験からいえば、エッセイは取材が大切。そのために軍艦島に行ったり裁判所で傍聴したりいろいろな取材をしました。
そうして気づいた自分の気質だったのです。展開や結末を自由に創ってしまいたいということでした。
興味は本当のことかどうかではなく話を作りたかったのだということです。
だからエッセイ教室をやめて小説教室に変わリました。
【読者の目を引くための条件】
出席者が持参した新刊が紹介されました。金原ひとみの小説のおもしろさは、普通の人生ではないところだろうと思います。
一般読者にはない変わった経験を持っていればそれだけで小説になるのではないでしょうか。
この意見に対しては、経験は素材にはなるが小説にはやはり想像力が必要だという反論がありました。
そのほかに作者名としてあがったのがミュージシャンの尾崎世界観です。芥川賞候補になり、その後も文芸誌に作品を発表しています。
歌人の穂村弘と東直子の名が上がりました。二人の歌人が交互に短歌を詠むことで綴った物語があり、その中に出会いと結婚と死があります。
その最初の歌と最後の歌が全く同一でありながらその意味は全く違うというものです。
一方で、無名の作者の本が本屋で手に取られるための条件についての意見が出ました。
第一は長編であること。短編集では注目されないだろうということです。
具体的には、四百字詰め原稿用紙で二百〜三百枚程度、文字数十万文字程度で一つのまとまったものです。
また、読者に取ってもらえるには魅力的なオビが必要です。読者の気持ちをちょっとでも動かせればいいのです。
【作者と出版社の関係】  
カフェ参加者の中に長編小説を書いた経験がある人が2名いました。
しかし、2名とも出版までには至りませんでした。主な理由は自費出版であったため一部買取りの条件が入るため、
金銭的あるいは本の保管スペースの問題があったためです。  
井上荒野の短編の中に自費出版の出版社に勤めている編集者の話がありました。
そこには、素人作家をいかにおだてて自費出版させるように持っていくかに腐心する編集者の心理を描いたものであり、
最後は諸事情が絡み合って抑えきれずに、下らない作品だとののしってしまう話です。
自費出版を勧める出版社の実態を思わせる小説です。
【作家の魅力】  
カフェで注文したアルコールの酔いが参加者の口をなめらかにした模様で作品評から作家そのものへの評へと進みました。
沢木耕太郎の『天路の旅人』が面白かった。
最初に読んだのは『深夜特急』でした。ドキュメンタリーでありながら思索的結末をつけていく。
生き方と外見と作品がつながっていてカッコイイ。  今74歳で同い年。カッコイイ。  
小説家は顔が大切。夏目とか太宰とか三島とかみんなカッコイイ。
三島がいいなんて言うと「おまえ右翼か」なんて言われるけどそうじゃなくて描写と心のリンクがすごい。
『金閣寺』は日本語の文章として完璧。最近、三島が見直されているようだ。  
三島と東大全共闘と討論をやったときの映画がアマゾンプライムで見ることができて、当時の学生へのインタビューがあった。
その中で一番三島とやりあった芥さんという人。当時学生でその後演劇関係に進んだようだ。
インタビューで出た他の人はただの賢いおじいさんなのに、その人は今もカッコイイ。
いや若いときよりカッコイイ。人生で何をやってきたかが問題だね。  
カッコイイじいさんになるのはむずかしい。(笑)
カフェで紹介された本  
『私小説』金原ひとみ編の中の「ウィーウァームス」尾崎世界観著「電気の川」    
『小説家の一日』井上荒野著  『回転ドアは、順番に』穂村弘・東直子著  
『天路の旅人』『深夜特急』沢木耕太郎著  『金閣寺』『午後の曳航』三島由紀夫著

21  第21回ハマブンカフェ テーマ 「マンガ」   4月22日午後2時より


磯子区 牧野世話人宅) ・参加は9人。

【原作がマンガ】 ・宮原昭夫さんがかつて講演会で「今の才能のある若い創作者は小説からマンガに向かっている」と話していました。
それについてなるほどと納得したのは、最近話題の映画やテレビの原作がマンガという例が少なくないことです。
たとえば『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ作)は、古代ローマの浴場設計技師が現代日本にタイムスリップして日本の風呂文化に
ショックを受けるという話で、その発想がすごいと思いました。
また『ゴールデンカムイ』(野田サトル作)は、日露戦争後の北海道や樺太を舞台に元陸軍の兵士とアイヌの少女が秘密の金塊を追い求める話です。
五稜郭で死んだはずの土方歳三が生きているなど荒唐無稽な話ですが、アイヌの料理・狩猟などの文化が丁寧に描かれていて、
アイヌ協会の関係者からも評価されているのです。その他にもNHKで放映した『風雲児たち〜蘭学革命〜』(みなもと太郎作)は、
杉田玄白などの幕末の蘭学者をめぐる壮大な物語となっています。ストーリーを楽しむならマンガの方が簡単です。
じっくり読むなら小説だと思います。 【マンガの文学性】 ・マンガは情景描写や雰囲気を絵で表せますので、小説ではできないことができます。
たとえば、『絶対安全剃刀』(高野文子作)という作品集の中の『田辺のつる』は、おかっぱ頭の幼女として描かれている主人公の日常を描いている
のですが、その主人公は実は痴呆症の始まった老女であったことがわかってくるのです。
客観と主観が同時に表現されていて、漫画も文学になると思いました。 【小説の読者】 ・小説は行間を読んだり裏を読んだり、想像を働かせることができます。
また同じ『人間失格』でも14歳で読んだときと30歳で読んだときでは読み方が違ってくると思います。
読者の方が経験を積んだために見方が変わっているからです。小説は読者にとって面倒くさいとも言えますし、多様な読み方ができるとも言えます。 【マンガのコミュニケーション力】 ・マンガは絵が前面に出てくるので、キャラクターのインパクトが強く、読者よって捉え方が違うということがまずはありません。
ドラえもんは今でもすごい人気で原作者が死んでも新しい話が出てきます。ドラえもんに関する本もたくさん出ていて、
卒論のテーマにもなるほどです。
・マンガのコミュニケーション力は強力で、中国では『スラムダンク』(井上雄彦作)が大人気と聞きました。
『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴作)や『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子作)など日本のマンガやアニメーションが海外でも人気があるのは周知のことですが、その先鞭をつけたのは手塚治虫であると思います。
SFの『鉄腕アトム』から輪廻転生を扱った『火の鳥』まで、その作品は膨大であり世代を超えたファンがいます。
アトムで描かれた未来世界の一部が今の世界の現実になっています。 【コミカライズ】
・小説とマンガの関係では、小説を原作とするマンガがたくさんあります。『走れメロス』『カラマーゾフの兄弟』もあります。
内田康夫の推理小説は、いろいろな漫画家が書いています。
かつても『小公女』などは子供向けに絵入りのダイジェスト版がありましたが、今は文学だけでなく、テレビ、映画、アニメ、ゲームまでもマンガ化するようになっています。
これをコミカライズ(メデイアミックスをマンガの側面から捉えた言葉)と呼んでいます。
【忙しいマンガ読者の風景】
・かつてマンガをよくないものというイメージがありました。そのため家では読めなかったのですが、ピアノ教室にマンガが置いてあり、待ち時間に読んでいました。
・大学生が通学の電車の中でマンガを読んでいて話題となったことがかつてありました。その後若いサラリーマンが朝の喫茶店でモーニングセットを食べながらマンガを読む姿が見られるようになりました。
・今はスマホで読んでいる人をよく見かけます。 【マンガは文学を殺すか】 ・今回のカフェの題として事務局から提案があったのは
「文学を殺すもの」でしたが、対象をマンガに絞って話してみました。マンガは文学を殺せるかと問い直せば、殺せないという意見に集約しました。
しかし、紙媒体がスマホやパソコンの媒体に変化していくことで、じっくり小説が読めるのかという懸念と画面を見つめなければならない目の能力低下(特に子供の)を不安視する声が多く出ていました。

(文・芦野信司)
第20回ハマブンカフェ 2022年12月4日午後1時30分より テーマ『人脈或いは他人から受ける恩恵』

(石川町 ギャラリーKAN)参加は16人。
久々にリモートではなく、ワインを飲みながら対面で意見を出しあった。 はじめに牧野薊さんによるミニ講演
「ホースネックに集った文人達」がありました。
ホースネックギャラリーは、牧野薊さんのお父様である牧野勲さんが戦後に経営していた画廊です。
場所は馬車道で、割烹蒲焼「わかな」の真ん前にありました。
 ホースネックでは、進駐軍から供出されたジンジャーエールが辛すぎて日本人の口には合わなかったため
焼酎で割ってレモンを浮かべ飲ませていました。それがホースネックという飲み物として定着しました。
また同じく当時は珍しい本物のコーヒーや砂糖を提供していました。
喫茶店の名は「三春」でした。
 ホースネックに最初に集まったのは画家たちで、彼らは主に似顔絵を描いて生活していました。
今年5月にハマブンの第2回文芸講演会で講師をしていただいた荻野アンナさんのご両親もよく来ていました。
お母様の江見絹子さんはすでに新進画家として有名でした。
勲さんは、ともすると対立関係に陥ってしまう気むずかしい芸術家たちを誰でも仲良く話し合えるような雰囲気にしてしまうことが
上手で、といえども一個人として気楽に振る舞える場所ということで人気がありました。
 ホースネックには文人も集まってきました。大佛次郎さんはニューグランドで散髪した後に寄っていました。
山本周五郎さんは引っ込み思案で自分から話のできない人だったので何かにつけ勲さんを頼りにしていたようです。
長谷川伸さんは横浜復興に躍起になっていた勲さんのために一龍斎貞丈さんや村上元三さんなどを応援として送り込んで下さいました。
 そのような中で、日本人に本格的な西洋画の描き方を伝授し、ポンチ絵と今でも言葉が残っている日本最初のマンガ雑誌
『ジャパンパンチ』で
有名なチャールズ・ワーグマンの墓が山手の外人墓地にあるので、命日にワーグマン祭を開こうという案が出されました。
勲さんはかつて新聞記者だったこともあり、持ち前の広い人脈と行動力を活かしてそれを実現してしまったのです。
大使を呼んだり有名な画家や漫画家を呼んだり雑誌に取り上げてもらったりと盛り上がりました。薊さん自身も有島生馬さんを
会場まで案内したそうです。
そして、ワーグマン祭は横浜の春の恒例行事となりました。
 神奈川県女流美術家協会を設立しようとなったときも、勲さんが方々に連絡をして、一時間も経たないで会ができたといいます。
 勲さんは横浜ペンクラブや横浜文芸懇話会などいろいろな会を立ち上げましたが、一貫していたのは自分が前面に出るのではなく
協力者にやってもらうという姿勢でした。
 横浜ペンクラブの会長は北林透馬さんでした。北林さんは馬車道にある平安堂薬局の次男で、横浜を代表するモダンボーイでした。
中央公論の文芸アンデパンダン展で第一席に選ばれ、流行作家として活躍していました。
勲さんは友人である北林さんをトップに据えて、自身は実質的な運営に力を注ぎました。

・ミニ講演の後、薊さんから当会の文芸誌と人間関係についての意見が示されました。
当会には文章書き慣れている人もいれば書き慣れていない人もいます。書ける人にはこだわりが出て来るので、意見の衝突も起きます。
しかしそれは喧嘩ではないのですから、自分が一歩退いて相手の話を聞き、話し合いをしていけば必ず接点が見いだせます。
だからまず話し合うことが大事です。
当会の会員には自分が前面に出るのではなく協力者にやってもらうという勲さんの姿勢を学んでほしいのです。
・この後、文芸誌の校正や当会発足時のいきさつやコロナ禍で対面での会員交流が困難であったため一体感の醸成が困難であったことなどが
話し合われました。
・最後に、対立を怖れることなく大いに議論しましょうという薊さんの決意表明に参加者の賛同が寄せられました。
                                       (文・芦野信司)
第19回ハマブンカフェ  6月25日午後4時より テーマ 「文学とジャーナリズム」

リモート

・参加は16人。会員には小説家もジャーナリスト経験者もいて、フィクション、ノンフィクション、新聞・雑誌記事の相違について活発な
意見交換があった。またヨコハマ文芸の編集方針という身近で現実的な問題が取り上げられた
・司会からオスカーワイルドの格言が紹介された。「文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。ジャーナリズムは読むに耐えない。
文学は読む人がいない。それがすべてだ」 
・文学はフィクションでもいい。だが、ジャーナリズムは真実を追求する。小説はフィクションのはずなのに、ハマブンの編集は
ちょっとした事実関係にも突っ込んでくる。それが気になる
・フィクションと間違いは違う。小説は作り事であり、最初から現実にあり得ないような幻想小説なら何を書いても構わないが、
現実を踏まえて書いたような小説ならフィクションであってもでたらめでは許されない。編集責任がある。
・ジャーナリズムの文体と文学の文体は違う。ジャーナリズムの文体は漢字が多すぎないこと、かなで書いてわかるようなことはかなで書くこと、
長い文章はだめで簡潔に書くこと。そんなことを若い頃に叩き込まれた。小説家がジャーナリズムの現実として立ち向かう相手は校閲者だ。
校閲には独特の小宇宙と法則がある。雑誌の場合は編集者だ。そういう人たちとよく対立していた。
・本を出すに当たっては編集者や校閲者のチェックのあと自分がチェックし発売となる。自分に問題はない。
・ジャーナリズムは殺人事件があった場合、犯人は悪者だと一面的に扱われるが、小説は必ずしもそうではない。
犯人の立場で書くこともできれば周りの人の立場で書くこともできる。ある歴史作家は記録が乏しい古代中国の歴史小説を書いたときは
80%想像だったと言っている。そこがジャーナリズムの突っ込めないところだ。
・ジャーナリズムが一面的に表層しか捉えないというのは現実と異なる。連載記事として、犯人の生い立ちからその後の成長過程、
殺人に至った経緯を多方面から理解し公表する場合もある。
・知り合いの放送記者が、世間が期待していることをジャーナリズムはやらなければならないといっていた。
・昔はおかしなやらせがあったが、今はない。
・かつて女児連続殺人事件の犯人の報道で、犯人がこのような犯罪を犯すようになったのは親が働いているから子供がそうなったのだという
新聞記事があった。新聞が事実を報道するのならどのような根拠でそのような判断になったのかを示すべき。頭に来たので新聞社に対し
質問したが返事はなかった。
・文学として読むときは読む人がこれは創作だと分かるようであればいい。読者に混乱を起こさせないようにしなければならない。
・中学校で教師をしていたとき、授業で新聞記事を作らせたことがある。バラバラの情報をメモにしてできるだけ多く書き出し
(中にはよけいな情報も入れながら)、その中から正確な情報を選び、どうともとれる曖昧な情報を排除するという選び方をする。
選ばなければことばは役に立たず、選んでつなぎ合わせて自分たちの考えを表現することができるという経験をさせた。
・工事現場で育つ小さな1羽のコチドリの雛を観ても、事実をそのまま受け取り、感情を差し挟まず「今年はここで1羽の繁殖に成功した」
と思う人と、「かわいそうだから、雛が飛べるまで工事を中断して欲しい」と談判しに行く人がいる。この違いは「思い入れ」なのだ。
思い入れに個性が表れてくる。人の思いというものはすごいと思った。
・文学とジャーナリズムというテーマだが、このジャーナリズムはマスメディアのことではないか。ここは区別しなければならない。
例えばウクライナとロシアの関係を近代社会だけでは片づけられない数百年来の思いを伝えるのがジャーナリズムだと思う。たまにはそういう
記事もある。それに対し小説は何でもいい。ただ嘘を書いてはいけない。嘘をつかない範囲の奇想で楽しく刺激的に共感を読者に与えながら
新しい世界を示していくのが文学だと思う。
・先般ヨコハマ文芸の6号で岡本行夫の新刊を紹介する文を書いた。そのとき「ファン」と書いたのを「支持者」にハマブンの編集部から
直された。岡本行夫を客観的に説明するのに「ファン」はふさわしくないという指摘だった。自分に客観的に書く訓練ができていないせいも
あるが、逆に「ファン」と書いたのは単に支持者ではない思いが入っていたのだと気づかされた。そこで考えたのは、ジャーナリズムは客観性に
重心を置き、文学は主観、個性、共感性に重心を置いていくということだ。例えば中上健次の作品は、蒸留水のような文では表現できない。
・若い時にフランクルの「夜と霧」を読んだが、今読むと違って読めるのだろう。陶芸の先生がモニュメントを制作していた時「強制収容所にもし
窓があったら君たちはどう思うだろう。僕は新しい風を入れたい」と言った。「夜と霧」は今も通用しているが、新しい風を入れるということが、
ヒントになるかなあと思っている。コロナとかウクライナの戦争とかがダブってくる。
・世の中が物騒になっていて暗いニュースばかりだ。ある小説家は軍国少女だったという。自分が小説を書くときは、世間の風潮に流されない
自分らしい視点で書いてみたい。戦争と平和を考えてもニ択しかなく正反対ものもを決めなければならない時があるらしい。間違った
選択をしたらどうなるのだろうかと思う。このままで良いのだろうかと思う。もう少しまじめに生きていきたいと思う。
・文学は作品の責任を作者自身が受けて立つものなのだろう。ジャーナリズムは組織があり背景となる事情がある。
・ジャーナリズムとノンフィクションは別ものだ。
・新聞記者は事実を追っていく。追っていくと、事実と事実の間に溝があらわれる。しかし新聞記者はフィクショでンその溝を埋めることができない。小説家はいいよなあと仲間内で話したものだ。
・時代小説が好きだ。横浜市内に大名がいたことがあまり知られていないのでいずれ書きたいと思っていた。こだわりは、フィクションの部分と
事実は切り分けること。当時育てていた野菜を想定したとき、キャベツやトマトではだめ。白菜や瓜だろうとなる。十手も朱色だけではない
紫の紫房の十手もあった。主人公が通った山道を想定して実際はバスで行ってみるとか。草鞋の結び方を間違えたら恥ずかしいと思っている。
食事の食べ方にしても、当時は家族そろって食べるのか。上級武士と下級武士では違いがあったのではないか。そのへんでごまかしもあり、
それを楽しんでいる。フィクションを書いているある小説家と話したが、その人はものすごく取材している。どこまで事実関係を調べるかは
作家の姿勢の問題だと思う。
・背景としてのリアリティは間違えてはいけない。どう体験するかが作家の個人的な問題。
・嘘を書くなら細かいところまで調べて書かないと崩壊してしまう。
・記事を書くときとエッセイを書くときとの切り口の違いは、記事は事実そのままなのに対しエッセイは楽しんで貰いたいという意識が先に立つ。
・新聞記者は取材で隠れていた事実を発掘しようとする。それが喜び。ノンフィクションとジャーナリズムの区別は難しい。ニュースを深く
掘り下げてみようとすると新聞は連載ものとなる。私が女房から肝臓を貰った話はノンフィクションだが、雑誌にも書いていて分けることができない。ノンフィクション作家には元新聞記者がいっぱいいる。小説家でも井上靖は長いこと新聞記者をやっていた。藤沢周平も業界紙の記者をやっていた。
・小説に構想が必要なようにジャーナリズムにも仮説や構想が必要だ。取材するにも仮説があって裏付けを取る。取材の結果が仮説と違う場合でも
仮説に執着すると誤報につながる。仮説にこだわらない態度も必要。
・フィクションと嘘は同じだろうか。フィクションによって事実を伝えたり、事実を発見するためにフィクションを使うことがある。
新聞記者が取材で新事実を発見することを楽しみとするように、小説家にはフィクションによって発見する楽しみがある。
嘘という切り口でフィクションを語ると嘘だらけになるが、フィクションがすごいのは事実の先を行くことだ。SF然り。小説も。
それが文化を牽引する。こんなことがあってほしいということ。それが創造性ではないか。
・若い頃の村上龍がいつも時代の一歩先を書いていた。作家のすばらしさはそんな先見性にもある。
・ノンフィクションは削るフィクション、通常のフィクションは付け加えるフィクションではないか。ウクライナ戦争の報道も削ることで
成り立っている。
・何かを書こうとするとき、あとから削るような情報は最初から取らない。拾い集めた情報から書きたいものが一番はっきり見えてくるような
書き方をしている。イメージだけで原稿用紙400〜500枚程度に膨らませてしまうと私の場合は収集がつかなくなる。
・何を書くかは誰かに共鳴して貰いたい、賛同して貰いたいという気持ちが一番大きなモチベーションだと思う。
・事件に対し記者は客観的な立場に立たなければならないとしても、やはり気持ちが入ってしまう。現場に行き子供が殺されているのを見ると、
こいつは絶対許せないという感情が動く。   (文・芦野信司)
第18回ハマブンカフェ 4月23日午後4時より テーマ「自分の本を出す喜びと不安」

リモート

・参加は19人。ゲストに冬花社代表の本多順子さんをお迎えし、文芸書出版の現状を教えていただきました。また、出版経験のある会員も多く、実体験で得た喜びと後悔について具体的かつ率直な発言があり、出版経験者はもとより今後出版を考えている参加者にとっても有意義な語り合いになりました。
・本多さんの話 文芸書の自費出版と商業出版の違いは、今は無いに等しい。商業ベースに乗るには最低でも3,000部を購入する読者が必要。地方の書店まで出回るには数千部が必要であり、売れるコツは話題性だ。賞や広告はほとんど影響がない。印税は10%あればいい方で5%,3%の場合もある。自費出版でも色々な形式があり、たとえば1,000部出版したうち300部は作者が買い取る方法などがある。自費出版でもISBN(国際標準図書番号)のバーコード付きで書店やアマゾンで売ることができる。費用は作者がどういう本を作りたいかで大きく変わってくる(百数十万円〜三十万円程度)。編集や装丁に凝った上製本なのか、オンデマンドで簡単に作るのか。あるいは電子書籍として出すという方法もある。
会員の経験 会員の出版物で「売れ」た経験が語られたのは、日本エッセイストクラブ賞を受賞した裁判官の新書、精神医学者の専門分野の新書、香港の中国返還ブームに乗った香港在住記者の本。多くの出版経験者は自費出版であり、売れないで結構な部数を引き取る結果となった。出版社の営業トークには要注意。文学賞では出版社主催の出版確約の付いた賞が狙い目(ただし受賞しなければならない)という説もある。
・電子書籍について電車内の乗客の風景が変わった。昔は本だったが、今はスマホを見ている。紙の読者が減って電子書籍の読者が増えているのでは。電子書籍は文字の拡大や検索が可能で、会員になれば無料で読める場合がある。自費出版も電子書籍が増える可能性がある。しかし、書店に並ぶ本の中に自分の名前を見いだす喜びも捨てがたいという意見があった。(文・芦野信司)
第17回ハマブンカフェ  2月26日午後4時より  テーマ 「情報機器と私たち」

参加は10人。パソコンやスマホで不特定多数の人が繋がるようになって、コミュニケーションの仕方が以前とは明らかに違ってきている。便利になった反面、情報機器への依存や深く理解する能力の低下などが懸念されている。
また、車のAI化がエンジンの起動を困難にするなど、便利さの追求がかえって不便をもたらす事例もある。
しかし、コロナ禍でもハマブンカフェが開催可能なのはリモートのおかげであり、国際化で世界の各国に住んでいる家族が無料で毎日顔を見られるのも発達した情報機器のおかげである。この便利なテクノロジーの発達の流れは止められないだろう。ロシアのウクライナ侵攻のニュースは、即時世界中に発信される。だが同時に膨大なフェイクニュースやフェイク映像も発信される。旧ソ連が崩壊した原因の一つが、西側諸国の経済発展を映し出すテレビの普及であるとも言われており、為政者による情報のコントロールが効かなくなっている。AIが人類の知能を超えるシンギュラリティは2045年に起きるといわれており、どのような世界になるのだろうか。(文・芦野信司)
第16回ハマブンカフェ 12月25日午後4時より テーマ 「クリスマスと日本人」

参加は17人。
欧米のクリスマスが家族中心の家庭でのお祭りであるのに対し、日本ではクリスマスセールやクリスマスに因んだ宴会などの消費喚起のお祭り騒ぎになっている。明治33年に横浜から銀座に移転した明治屋が日本で初めてのクリスマスセールの飾り付けを始めたというので端緒はその辺りにあるらしい。参加者からクリスマスに関する思い出が紹介された。自身がサンタの存在を信じていたのは何才ごろまでか。子供にプレゼントを隠すための苦労話。母子家庭で育った参加者に差出人名のないクリスマスカードを中学卒業まで送り続けた小学校教師。サンタからのプレゼントをAmazonのサイトで探す現代の子供の事情なども。また、クリスマスプレゼントにお薦めの本を参加者に聞くと次のような書名が上がった。マイケル・モーパーゴ著『世界で一番の贈りもの』、チャールズ・ディケンズ著『クリスマス・キャロル』、斉藤洋著『どうぶつえんのいっしゅうかん』、ショーン・タン著『エリック』『アライバル』、クリス・ヴァン・オールズバーグ著『急行北極号』、マージェリィ・W・ビアンコ著『ビロードのうさぎ』、クレメント・C.ムーア著『クリスマスのまえのばん』、フランシス・チャーチ著『サンタクロースっているんでしょうか?』、安野光雅著『ふしぎなえ』町田そのこ著『52ヘルツのクジラたち』、デヴィッドカリ,セルジュブロック著『まってる。』、映画では、ウェイン・ワン監督『スモーク』(文・芦野信司) 
第15回ハマブンカフェ 10月23日(土)20時~22時 テーマ「嫉妬あるいは妬み」

リモート

参加は15人。
言葉の定義:嫉妬は自分の持っている何かを奪いにやってくるかもしれない可能性を持つ人を排除したいという感情であるのに対し、妬み嫉みは自分より上位の何かを持っている人に対してその差異を解消したいという感情。
このような了解のもと、嫉妬、妬み、嫉み、あるいは羨望、カインコンプレックスなどの感情にまつわる会員の意見が出された。会員自身の経験の他にゲーテの「若きウェルテルの悩み」、漱石の「こころ」「それから」、島尾敏雄の「死の棘」、安珍清姫伝説などの文学作品を例にあげた分析があった。
嫉妬をはじめとしたこれらのネガティブ感情は、通常は目を背けたがる感情であることから、文学的に追求するのにふさわしいという意見。嫉妬は相手と競争できるような(同等な)人間関係の中で生まれる感情であり、かけ離れた相手に対しては生まれないという意見。例えば、兄弟姉妹間、友人間、職場や老人ホーム内のような小さな世界から国家間のような大きな世界でも発生するということ。その他、意識されない嫉妬心、体験できなかった人の(例えば災害体験、戦争体験を)体験者への嫉妬心なども話題となった。(文・芦野信司)
第14回ハマブンカフェ8月28日 20時~22時  テーマ「幸福感について」

リモート

参加者は12人。「哲学カフェ」として、司会者からルール説明があった。
・テーマは、スタート時に参加者から募り、多数決で決定する。
・何を言っても良い。・人の意見を否定しない。・知識でなく、経験を話す。・互いに問う姿勢をとる。
テーマを決めるにあたり、ある会員から精神科医の会員へ質問があった。
Q. 人間が幸せと感じるには、セロトニンやオキシトシンなどがあればいいのか。幸せホルモン剤を服用すれば、簡単に情動や愛情が生まれてしまうものなのか。
A. 還元主義的に言うと、幸福感はセロトニン、ドーパミン、アドレナリンが影響していて、投与によってストレスが軽減される。オキシトシンは男女、親子、犬との関係(犬のオキシトシンは、猫の10倍)などで出る愛情ホルモンである。特に母子の間で強く出る。
このQ&Aをきっかけに、幸福感はどのように生まれるのか、参加者にとっての幸福とはどんなものかを語りあうこととなった。テーマから、精神科医のW会員(以下W)が談話を助言していく流れとなった。
・犬好きなので、犬が寄って来る。日本人は恥の文化なので、誰かにそばにいて欲しいということを恥と思うのではないか。
・誰かに甘えられない人は、アダプティドチャイルド(従順な子ども・AC)。甘えられる人は、フリーチャイルド(自由な子ども・FC)。FCならば、相手によって子ども返り退行ができるので鬱などになりにくい。 (W)
・誰かにいて欲しいのは、オキシトシンの欠乏なのか。
・人の気配を感じる環境にあることが重要。精神学的には、愛情を求めるオキシトシンは、異性の親を求めることに還元される。(W)
・女房といる時が一番楽。若い時は違ったが、いつの間にか一番楽な存在になった。
・犬や猫は、人間に代わるものなのか。
・配偶者よりペットに癒される人は、かなり多い。(W)
・やはり長年一緒にいた妻。孫娘といるのが楽である。セロトニンが入れば幸せが更にアップするのか。
・セロトニンは鬱などの人を元に戻すのに効果を発するもので、普通の状態の人がもっと幸せになるのは、
麻薬とかしかない。(W)
・オリンピック、パラリンピックは無観客。高校野球も。客席の応援が無い状態で結果を残している選手たち。人間は人がいなくても力が出せるものなのか。たとえば人に読んでもらえない本を書くということは?
・心理学者マズローの「欲求5段階説」を思い出した。(生理的⇒安全⇒社会的⇒承認⇒自己実現の5段階)。欲求が満たされると、段階順に次の欲求を満たそうとするという説である。
・幸福感、満足感は年齢によって違う。幸福感は幸福な時には感じない。振り返ってから考えるものだ。
・相手がどう感じているのかが気になる。自分が意図したことが伝わらないのが、今の悩み。
・自分は癌サバイバー。飼っていた犬が自分のガンを持って行く形で死んでいき、ガンは消えた。
・同じく癌サバイバー。怖いものが無くなり、幸不幸を感じることが無くなった。
・歳をとって癇癪を起したり、思いやりが無くなる人について知りたい。
・「ここだけはやらせてもらう」的な自己調整したフリーチャイルドなら良い。我々に必要なのは寛容性。(W)
・コロナ禍で観客が減った問題は、人類の転換期。人間も原始的感覚に耐えられなくなっているのかもしれないと考えると興味深い。
・修学旅行生の様子をニュースで見た。フェイスシールド越しの縛りある行動を課せられ、気の毒。それでも幸せと思っている? 悲しい?
・修学旅行に行けたというだけで、それは大きな体験になるはず。
・それでも修学旅行に実際に行くのは、アナログの幸せだ。バーチャルの旅行は、デジタルの幸せ。
・アナログの幸せは、バーチャルの幸せより上。ホルモン的にも違うものが出る(W)
・デジタルが主流になる危機感がある。
・デジタルはツール。男女関係はデジタルでは無理。動物的な嗅覚と触角は大切。消臭文化は問題あり。社会構造が変わって来て、今の若者がちょっとヤバい。関係性が変になっている。(W)
・小学生の孫たちに、リモート越しに面白い扮装をして見せ遊んでやる。今の子どもたちは、人と触れあえなかった時間に何をしていたのかが、大人になった時に影響してくると思う。
・シンガポール在住の孫(幼児)と、夫婦そろってリモートで繋がっている。コロナ禍で長く会えていないが、毎朝のように画面越しに顔を合わせているから、実際に会えた時も怖がらずに接してくれそうだ。
・遠距離恋愛は、今はリモートで繋がれるようになった。
・若い人のアンケートを読む機会があった。今の大学生たちはコロナでずっと学校に行けず交流出来ない辛さを抱えている。一方で、大学の先生がオンライン授業によって、新しい体験を重ねる意味に気づかされている。
・(大きな文学賞を受けた会員に対して、その時は最高の幸福でしたか? と質問があがった)
受賞は、いきなりお日様の下に引っ張り出されて、地獄のストレスとなった。新婚旅行と重なり、妻ともぎくしゃく。ティーンエイジャーの時に病気で四年間寝ていた時がいちばん幸せだった。今も布団の中に入る時がいちばん幸せ。これがあればすべての人が幸せを感じるというものは無いと思う。
・自分の体が自分の思いどおりに動くことが幸せだったな、と思う。テニスをしていた時は脳の指令どおりに体がついてきた。
・人に自分の本を読んでもらうことか幸福。感想がきけて嬉しい。
・アニメの美少女や推し(押し)のタレントに燃えるのは、オキシトシンが出ているのか。
・二次元にもオキシトシンは出ています。(W)
………………………………………………………………
幸せホルモン、犬のオキシトシンパワー、アナログとデジタルの幸せ……。各自の体験にQ&Aが絡む談話となった。今なおコロナ禍のリモートカフェ。デジタルの集いが続いている。W会員の「アナログの幸せはデジタルの幸せよりずっと上」の言葉が重い。早く「生カフェ」が出来ますように……。 (文・かがわとわ)
第13回ハマブンカフェ6月26日午後8時より テーマ 「様々なハラスメント」

リモート

参加は15人。ハラスメントは一説には35種とも60種とも種類があると言われている。定義が混乱しているのか、言葉が一人歩きしているのか、その実体を捉えるため、会員の身近な体験を通してハラスメントを見つめ直した。
・教え子にトランスジェンダーの子(肉体的には女であるが精神的には男)がいて、クラスの自己紹介で「男なんです」と言われた時、「うそつけ」と反応してしまった。実情を知り後で謝ったが、当時は性同一性障害があまり意識されていなかったためホモネタなどで教室の笑いを取ったりしていたので、不用意な発言で生徒を傷つけたことがあったのではないかと危惧している。
・昔は本人がいじめられたと言っても学校が認めなかったが、今は簡単にコンプライアンスに関わる問題として認められてしまう。あまりに過敏になっているのではないか。いじめを自力で克服しようということがなくなりひ弱になるのではないか。いじめる側もいじめられる側も互いに相手の身を想像できるようになればいいと思う。ハラスメントがあったということでプツンと切れてしまうことは、人間の関わり方として疑問だ。
・時代的な違いがあり、OLだった40年前はひどかった。触られる。クリスマスケーキ(25歳が限度)と言われる。結婚したら辞めることが入社の条件だった。酒席ではお偉いさんにお酌したり、たばこに火をつけたりすることを強要された。
・派遣社員をやっていていろいろな職場で働いてきたが、その管理者と溝が生じることがある。自分の子供と同じぐらいの年齢の管理者にぞんざいな扱いを受けても契約期間中は我慢している。パワハラの相談窓口はあるが、一個人となると言えない。
・海外で女の子を6人続けて産んだので、子育て中はずっと世間からハラスメントを受けてきた。慈善団体に参加していたが、日本にいたら女性はこんな活動はできなかったでしょうと散々男性から言われた。そんなことがあって、それを跳ね返すために強くなった。日本の男性が自分の威を誇示するため地元の支配人格の女性にお酒を注がせる場面に遭遇した。これはハラスメントというより差別ではないかと思う。
・いま暮らしている家は山の中にあり、隣接して動物園がある。ところが、台所の直ぐ近くに馬小屋ができた。私は動物アレルギーがあるし、臭いがどうにもならないほどひどいので、園長に掛け合った。園長は善処してくれたので問題は解決したが、自分たちはいつも動物と一緒にいるので臭いに気づかなかったという。この場合と同様に、気づかないで誰かにハラスメントをしてしまっていることがあるのだと思う。
・いろいろなハラスメントが言われているが、明確にハラスメントと言われるのは、権力の上下差がある関係の中で強者が弱者に嫌がらせをしたり、人としての尊厳を傷つけたりことを指すのだろう。
・ハラスメントは、圧力に対抗したり笑いや他のことに転嫁したりできない弱い立場の人に深刻な問題。いじめられることにはメカニズムがある。いじめられた人は自分が悪いと思わされている。他人に訴えると、ちくったと言われ、またいじめられる。セカンドハラスメントになる。いじめる人は正義を後ろ盾にして人を責める。正しいことを言えば良いということではない。どういう風に言ったら良いかが問題だ。弱者に自尊感はないかもしれないが、自尊心はあることを忘れてはならない。
 この後、ハマブンカフェが当初目指した哲学カフェ的活動と違っているのではないかという意見があり、参加者から多くの意見が寄せられた。意見の違いを越えてカフェを続けることが重要であり、いずれリモートの利点を残しながら、より多くの参加者が直接合って話し合えるカフェが復活することを期待して止まない。(文・芦野信司)
第12回ハマブンカフェ   テーマ「孤独」4月24日午後20時〜

リモート

・参加は18人。会員の個人的体験をベースに精神科医である渡辺会員の専門的知見を挟んで、深淵なテーマを多方面から考えることができました。

・日本人は欧米人に比べて孤独を感じるパーセンテージが高いというテレビ番組での情報があり、リモート会議参加者に「孤独は好きですか?」という問いかけをしたら、多くの参加者が挙手した。そして、どのような孤独なのかと問うと、「ツアーへの一人参加」「週4日の仕事上の単身里帰り」「週3〜4日の単身山小屋生活」など、自分の時間として大切なものという肯定的な孤独から配偶者の死や自らの病気によるものというネガティブな孤独まで幅広い体験が報告された。
・孤独を一人でいるという物理的な事象だけで捉えるのは違うだろうという意見が出た。ある小説家は、自分がいつも仲間と群れることができないのは自分が引っ込み思案だからと思っていたが、ある時自分は他人から離れて目立ちたかっただけだと悟ったと言う。あるいは、探検家の植村直己は孤独だったのかといえば、そんなことはありえない。死をかけた探検を世界中が注目していた。夢を追いかけていたり、心の中に誰かを想定できるような内的対象がいたりする場合は、孤独とは言えないという意見が出た。
・「孤独」の「孤」の元々の意味は親を無くした子であり、「独」は子を無くした老人だという。孤独の意味を突き詰めれば、好んで一人を求めるような選択の余地があるものではなく、愛し愛される存在を喪失し孤立する状態を指しそうだ。女性会員三人から報告された配偶者の死を起因とした深い喪失感と絶望感は会議参加者の心を打つものであった。また「自分を孤独と感じたことがない人は、人を愛せない」という瀬戸内寂聴氏の言葉が紹介された。
・愛と孤独の先に浮かんでくる生と自殺の問題について、生の本能と死の本能の話が渡辺会員から説明があった。レミングの研究では、自殺には遺伝的要因もあり、フィリピン人は日本を含めた他の周辺の民族より自殺を防ぐ遺伝子が強いという。
・孤独の性差に関し、男性会員から、群れを作る女性に対し群れをなさない男性の性は孤独であるとの意見があった。単独行動を取る動物のオスの姿を定年退職後の男性サラリーマン像に重ねる意見など。これに対して渡辺会員から、女性の方が強いコミュニティーを作ることは事実であり、それに対しコミュニティーを作れない高齢者男性の孤独が問題となっていると指摘があった。仕事をしているうちは良かったが、やることのなくなった男性は、自分の孤独に向き合うこととなる。そして、これまで忙しさに逃避していたことに気づく。妻に先立たれた夫の5年以内の死亡率は、そうでない場合の1.4倍となっている。それに対し、女性のデータは取られていない。つまり、そこに問題はないということ。
今回のカフェトークの中で、孤独に関する本が三冊紹介された。
「52ヘルツのクジラたち」町田そのこ著 「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子著
 「在宅ひとり死のススメ」上野千鶴子著

第11回ハマブンカフェ  2月27日午後14時〜 テーマ「最初と最後」

リモート

・参加は13人。2021年になって初めてのカフェ。今回が初めての参加という方もいて、「最初と最後」のテーマで、脱線しながら自由に楽しく語り合いました。
「食事の時、何を最初に食べるか」について
・兄弟が多く食べ物が不足していた幼児体験から、好きなものから食べてしまう方。幼児体験とは関係無しに、おいしい物から食べたら、次に食べる物は残った中で一番おいしいものだから、常にベストチョイスができているということになるとの説。
・食事にもストーリーがあって、一番好きなものは真ん中ぐらいに取っておきたいという説。どうせみんな食べなければならないなら、嫌いなものからさっさと片づけたいという声も。昔は嫌いだった野菜。最近は野菜から食べているが、だんだん好きになってきている。体にも好良いしね。
・テーブルマナーとして、お汁、ご飯、おかずでしょ。しつけと言えば学校の給食が食べられなかった。いやなものはポケットに隠して、帰りがけに捨てていた。給食が食べられないと居残りでにらめっこしていた。今の時代なら、いじめだと言われて親からクレームが来るところ。
・食べ物によって流儀があるという意見。駅弁は一番にご飯を食べる。ラーメンやそばは汁まで全部のむ。塩分の取り過ぎと言われようと、それが自分にとって一番おいしい方法。ケーキを食べるとき、まわりを包んでいるセロファンを舐めてしまう。いや、皿まで舐めるというという方も。最近ホテルのバイキングに孫たちと行ったのだが、孫の一人がマシュマロばかり食べる。それでは元が取れない。金銭的価値のあるものから食べなさいとしつけている。
「あ・うん」について
・向田邦子の小説に出てくる複雑な女性像の話題から、松任谷由美の「魔法のくすり」の歌詞の一部「男はいつも最初の恋人になりたがり、女は誰も最期の愛人でいたいの」の話題に飛び火。最期の介護をしてくれる看護師がもてるのもうなづけるという話になった。彼女たちはMでしょうという観測に対し、S 系の人たちも結構多いという内部告発
・最初の恋人として浮上したのが「先生」という職業。中学男子に「一緒に帰ってもいいですか」と誘われた経験(女性メンバーから)。男性メンバーからは、女生徒は共謀して演技する場合がある。若い先生は本気なのか演技なのかの区別つかなくて真面目にとってしまうことがある。また生徒も若いので勘違いするという経験談。
・最初のデートは末廣亭に落語を聞きに行ったという経験。その時急に司会の月の家圓鏡からインタビューされ、隣のデート相手がバックで顔を隠していた。それにテレビカメラにも映されたらしく、それっきりになったという。これは複雑な女性像ではなさそうだが。
「宇宙の始まりと最後」について
・物理の壮大な話題から、ローマ法王が物理学者に言ったという宗教との関わり方。「ビッグバンの後は研究してください。ビッグバンの前は研究しないでください」これは英知なのかジョークなのか。
・宇宙人の有無の可能性の話から、地球に飛来した宇宙人から人類が生まれたという説、昆虫の宇宙飛来説、タンパク質以外の物質からなる生命体説。生物と無生物の中間体と言われるウィルスまで話題が広がると、自然破壊が進んでシベリアの凍土やアマゾンの奥地から未知の病原菌が現れるのではないかという説も。
・コロナワクチンに話が及ぶ。受けるのか否か、もうすぐ選択を迫られる。
「セント・アンドリュースゴルフコース」について
・イギリスのゴルフは、コースは共有でクラブハウスの経営は別になっている。コナンドイルはゴルフコースのすぐそばに自宅を構えたという。クラブハウスを使わなければお金はかからない。その代わりにクラブハウスは様々なものがあり、男性専用とか女性専用のハウスもあるという話。
・そこから森元首相の女性蔑視発言と性差別の話題に転化。男言葉と女言葉の違いに話が及んで話題沸騰。江戸時代では男女の言葉の違いは無かったという説。落語でも無い。中国語でも無い。俳句は短すぎて無い。女言葉が生まれたのは明治期ではないかという説。岡本綺堂の文では女性を指す場合でも「彼」を使っていた。英語ではheとsheの違いがあり、その訳として彼・彼女の違いができたのではないかという説。いやいや、女言葉とはもともと丁寧語であるだけで、昔から変わらないのではないかという説も。
・結論がつくような話ではないが、差別語の取り扱いについては、多くの意見が出された。
・日本の男社会の中で隠れているが、すばらしい能力の女性がいたかも知れないという話題に対しては、江戸の武家では奥方が家の財政を握り家政をすべて取り仕切っていたので、実は権力を持っていたという紹介があった。外国の人から日本の女性はかわいそうだと言われる時、それは違うと言っている。
・一方で昔からの慣習で、何となく夫を立てなければならない。世話をしなければならないというところが女性にはあり、男性もお世話されて当たり前という意識はないかとの女性メンバーからの突っ込みに対しては、急に男性陣は黙ってしまった。それはどう解釈すべきなのか。(文・芦野信司)
第10回ハマブンカフェ 12月26日午後14時〜  テーマ「悪い奴の魅力―名作の中の悪い奴」

リモート

・参加は13人。新たに入会された桝田るみ子さんが参加。また、牧野薊さんは香港から一時帰国中のホテルからの参加となりました。クリスマスの翌日にさっそく悪い奴の魅力を語りあえる楽しい会になりました。
・何をもって悪い奴というかは基準が様々だが、思春期は不良っぽい男女がもてていた。またちょい悪オヤジの魅力も。例えば火野正平(異論もあり)。
・余裕があり、小粋で、一緒にいると楽しい。女を騙していそう。マンガではルパン三世。俳優では、バート・ランカスター、アラン・ドロン、津川雅彦、成田三樹夫、女優では岩下志摩、江波杏子。……… 結局、顔? 美醜と善悪は基準が違うのだからという説。
・昔、入江たか子は化け猫女優と呼ばれ、美人じゃなければ化け猫はやれないと言われた。タンスにゴンのコマーシャルで虫食い人形役の沢口靖子の口から歯が落ちて笑っているシーン、怖かった。万引き家族の樹木希林の格好悪さもいい。落ち着く、という声。若い女優の伸びしろを計る時の着眼点が悪の部分という説。山口百恵。
・作品では、芥川の蜘蛛の糸の主人公。蜘蛛の糸にすがって追ってくる大勢の悪人を怒鳴る主人公の切なさ。谷崎作品の不貞な女。罪と罰のラスコーリニコフ。夢野久作の嘘ばかりついている「少女地獄」。藤沢が舞台の大岡昇平の「事件」。トムとジェリーで容赦ないしっぺ返しを食らうトムの魅力。ドラエモンのジャイアンはどう?………ジャイアンはいい奴でしょ。
・一番悪い奴は、安倍晋三だよね。でも、選挙では勝つ。トランプも今回の選挙では負けたけれども票数は伸ばしている。悪い人が自分の代弁をしてくれるという期待があるのか。勝てば官軍。………恋も。魅せられている間は善。冷めれば悪。恋をしているときは血流が良くなり頭のてっぺんが赤くなっているそうよ。鶏のトサカだね。
・トランプは子供っぽいと思っていた。本当に悪い奴はトランプを裏で操作している奴。うわべと心の中の違いを感じる。
・子供五人を殺した女は普段はごく普通の人で、ただ事件の話になると急に黙るという話を看守をやっていた方から聞いたことがある。だから誰でも起きることなんだと。子供のころ父がススキノから連れてきたおじさんがいて小指にけがをしていた。父は彼が自分を助けるために小指を切ったのだ。経営する会社の恩人だと言っていた。
・善悪の判断は神無しでは決着がつかないかも。しかし、裁判官はそうはいかない。分からないというのはどこかが間違っているということなので、そこを解いていかねばならないという話を聞いたことがある。
・中学時代にさせられたクレペリン検査の性格判断で、悪の親玉になる素質がある、何か画策すると言われた。それに対し、それはやりたいことを自分で工夫するということなので良いこと、ただし他人を裏切ったり迷惑をかけるようなことをしてはいけないと父に言われた。私は他人に迷惑をかけない範囲で校則を破っていた。悪い?
・この歳になると、悪人小説は嫌になる。昔は悪い奴を魅力的に描くやくざ映画があったけど、世間的に悪を排除するようになってきて流行らなくなってきたのか。どうだろうか。
 かくかくしかじか浜の真砂の尽きない話で今年のカフェは終了となりました。(文・芦野信司)
第9回ハマブンカフェ 10月24日(土)午後8時~ 「不倫と文学(芸術)」

リモート

・参加は13人。香港から牧野薊さんが参加。札幌から中島シズエさん、星伸予さん、種田晴美さんが参加。
・世の中の建前(ルール)からの逸脱が本音なら、不倫は人間の真実の本音として位置づけられる。犯罪や異常者などの逸脱とは違って、不倫は文学上扱いテーマなので多いのではないかという意見。
・芸能界では不倫がよくあり「不倫は文化だ」と言われたりすることに対し、あれは言い訳だという意見。
・現実の不倫と芸術上の不倫は違って、現実の不倫は家族を傷つけるので認めがたい。最初は恋であり誰にでも起こり得ること。普通はそれが不倫まで進まない。読者にはそれがあこがれとなり、小説では美しく表現される。現実とは違うという意見。
・不倫は倫理の否定なのでまず倫理がある。欧米小説で不倫が多いのはキリスト教の背景があるため。同一人物内の矛盾が小説を面白くさせるという意見。
・倫理観は時代によっても違う。戦前には姦通罪があった。告発できるのは夫だけ。それが今でも倫理として残っていて、男性の場合は浮気となるが、女性の場合は不倫となり、女性の方に厳しいのだという意見。
・女性に厳しいのは、男女間の社会的経済力の違いが原因だという意見。
・都市ができれば遊郭ができるというのが洋の東西を問わずに発生する社会的現象。戦前は姦通罪だったが、今は性の平等から損害賠償請求になっているという意見。
・男女の性差がドラマを生み出すという意見。
 不倫と文学(芸術)の関係性が根深いことから様々な意見が出された。そこから、現実と文学(芸術)の違いにも話題が広がった。
 皆さん、好きなドリンク片手に自宅からの参加。カフェの二時間、秋の夜長を楽しまれたものと思う。
(文・芦野信司)
第8回ハマブンカフェ 8月22日(土)午後8時「ハマブン言いたい放題」&「ハマブンポストコロナ」

リモート

・参加は13人。香港から牧野薊さんが参加。札幌から星伸予さんと中島シズエさんが参加。当初2月に予定していたハマブンカフェは、新型コロナウィルス感染の影響で半年ぶりの開催となった。午後8時から好きなドリンク片手に皆ご機嫌の風情。テーマは、久しぶりの開催なので、言いたかったことを何でも言ってもらおうと「ハマブン言いたい放題」&「ハマブンポストコロナ」とした。
・世話人会でリモート会議が定着し、遠隔地から参加できるようになったという利点は大きいという意見が出された。ただし、音声がいま一つ。
・コロナについては、各自身近なところで様々な事象が発生している話題で盛り上がった。香港では全員PCR検査を受けることが義務づけられ、もし陽性となった場合は隔離する方針で、深圳の収容所へ移送される可能性があるという。日本でも、せっかく入学しても学校に行けなく友だちが出来ないとか、病院で子供が産まれても会わせてもらえないとか、精神科医の渡辺さんからは鬱と不安が増えてきたという報告があった。また、もともと引きこもりの人とか対人恐怖でマスクをしなければ外出できない人が、いまみんな同じ状態なので楽になっているそうである。
・コロナウィルスの人工説が根強くある。遺伝子が長く、切れやすい。そのため変異し易い。だから、怖いという説。急遽製造されているワクチンの有効性に対する疑問の意見が出た。
・ポストコロナに関しては、ウィズコロナの世界を予想する発言が多かった。来年のオリンピック開催という既定路線の変化。政治的には、トランプ政権の失策、安倍官邸政権の失策、厚生労働省の機能不全の実態が顕在化したことによる変化。労働の要不要にフィルターが掛かったことによる働き方の変化。意見が分かれたのは、マスクの文化と対人関係。マスクがファッション化しつつあり、ウィズコロナの文化として定着するのではないか。カップルではマスクを取るときが愛の到達点になるのではないかなど、新たな展開を予想する意見。一方では、対面して話し合い、共鳴してもらっていることが分かるようなリアルな関係でなければ、人類の発展はあり得ないという意見。
・ハマブンのポストコロナ像としては、リモートもいいが、横浜に行けば誰かがいるようなところがあるといいなという植竹さんの意見にみんな何となく同意。隣に飲み屋があるような…。
 現実的なところでは………ということで、山中さんからホームページで俳句募集をやるという提案があった。写真を兼題に会員の方からは勿論一般の方からの参加を募りたいという意見が多く出された。(文・芦野信司)
           ハマブンカフェ    運営委員  宮原 芦野 山中 香川
第7回ハマブンカフェ 年12月1日 午後 テーマ「芸術祭言いたい放題」
・参加者は18人。札幌から星伸予さんが参加。同じく札幌から参加の中島シズエさんは、残念ながら飛行機の都合でカフェが終わった後の到着となった。第1回ハマブン芸術祭の打ち上げを兼ね、芸術祭の反省・評価と次回へ向けて談論風発。とにかくまとまりのない楽しい会となった。 ・植竹さんと桐本さんからは、一年以前の発足時からの芸術祭のあり方に対し、格調あるものにするか雑多なものにするかの意見対立があったこと、今回の会場となったギャラリーkANは会場探しをしていた桐本さんが偶然見つけた所だったという紹介があった。繁華街の真ん中にありながらリーズナブルでオーナーさんが親切。今後もここを拠点にしたいという意見が多く出た。 ・芸術祭の総括は、初回にしては大成功。ダイバシティとハーモニー(多様性と調和)をめざし会員同士が多彩な側面を持っていることを理解し合う機会となったとともに、会員以外の方を巻き込んだ活動をある程度できたこと。何よりワンチームの全員参加型で多くの作品が出展され、芸術祭を盛り上げることができたという充実感が大きかった。 ・宮原さん発案で自身の色紙を競りで売ろうということになったあたりから、「芸術祭やりたい放題」のおもむきとなり、次々と競りの対象が出現。バンドのボーカルでもある糸山さんがにわか競り師となり、滑舌のよい美声で全てを売り切ってしまった。来年は「叩き売り」をやりたいという声もあがった。恒例の井上さんの歌唱の時はオーナーとの約束で防火扉を閉めることになっていた。すると、部屋の狭さがオペラ歌手の声量と相俟って、美しい声はより美しく響きもするが、場違い感もそこはかとなく漂う結果となり、誰もが感動しながらも破顔していた。これもプロの術の内。井上さんのリードのもと「旅愁」をみんなで歌い楽しんだ。 ・盛会裏に終了した芸術祭。ワンチームで達成したとはいえ、毎日似顔絵を描いたり、ガラス絵の描き方を披露したり、 強い牽引力を発揮された桐本さん。そして、責任者として全てを取り仕切った大橋さん。二人の努力に対して参加者全員から感謝の拍手が寄せられた。 (文・芦野信司)

第6回ハマブンカフェ 2019年10月26日午後   テーマ 「母の呪縛」
辻堂 ステージコーチにて

第5回ハマブンカフェ 2019年8月10日午後  テーマ「横浜ワンスポット・私だけの横浜 心の風景」
関内 bankarthomeにて

第4回ハマブンカフェ 2019年5月31日午後テーマ「男と女:ビブリオバトルで遊ぼう」
辻堂「ステージコーチ」にて 6人の会員が「男と女」を主題にしたお気に入りの小説や随筆、雑誌特集などを取り上げ、ビブリオバトル
(書評ゲーム)方式で競い合った。持ち時間は1人6分間。終了10秒前に司会役がベルを鳴らして知らせる。その後、発題者の周りを囲んだ
会員たちから遠慮のない質問が飛ぶ。笑いや野次も交じえて、にぎやかな談論が繰り返された。バトル参加者のうち4人は男と女、
親と子などの愛や憎しみの物語を取り上げ、一人は「タコの心身問題」、あと一人は野鳥たちのさまざまな求愛行動を紹介した。ひと通り
済んだところで、書名が列挙された用紙の中から1冊だけ「読みたくなった本」を選んでマルをつける投票に入った。この結果、野鳥たちの愛
の形がヒトやタコをおさえ、ナンバーワンに輝いた。優勝者はバードウォッチング歴10年を超える山中さんで、取り上げたのは「月刊野鳥5月号」
の特集。休憩を挟んで芥川賞作家でロシア文学に造詣が深い宮原昭夫会員が、ドストエフスキーの小説『永遠の夫』(米川正夫訳)を題材に、
外国文学作品と翻訳の妙について、熱弁をふるった。井上幸子会員がカンツォーネで、カフェを締めくくった。
第3回ハマブンカフェ 2019年3月23日午後 テーマ「『ヨコハマ文芸』創刊号で遊ぼう!」
辻堂「ステージコーチ」にて
ライブハウス「ステージコーチ」での2回目。前回は発言者はマイクで話したが、今回は膝詰めで話そうと座席を近づけ、直接話しあった。
「遊ぼう」の意味がよく分からなかったが、提案者の宮原が「合評会ではないという意味」と説明。これを受けて女性会員が
「会には短歌の得意な人、写真の得意な人など様々な人がいるのだから、それらをコラボした特集ができると楽しそう」と発言。
司会の山本が制作責任者の植竹に制作意図を質問。植竹は「同人誌風にならないように心掛けた。組み方はあくまで雑誌風に。
中身は会員以外の人も登場させるように工夫した」と説明。さらに、「提案のあった、コラボで特集を、と言う発想は魅力的だ」とした。
これに対して「横浜をテーマに」「海はどうか」などの意見が出たが、「最初からあまり広げずに、徐々にやった方がいい」と言う意見も出された。
創刊号では小説が7本あり「文芸誌としては特筆すべきだ」という意見が出る一方、「20枚以内では短すぎる」という意見が相次いだ。
「20枚だと小説ではなく、ただイメージを伝えるものという気がする」という声がある一方、「私は短いものしか書けない」という声もあった。
植竹からは「小説を長くするとページ数が増える。今回は108ページだったが、130ページを超えると制作費が高くなって500円では
売れなくなる」との説明があった。これとは別に、「ページにゆとりがない感じ。文芸書には空白も必要」などの意見も出た。
第2回ハマブンカフェ 2019年1月26日午後テーマは 「海」

山下町「カフェ88」にて 宮原氏の代表作の一つ「海のロシナンテ」は、主人公が友人たちと中古の漁船を買って
クルージングを楽しむ話で、それがテーマのきっかけになったが、それにとらわれず、各自がそれぞれにとっての「海」を語った。
「内陸で育ち、今は海のそばで暮らしている。海は朝昼夕、そして季節によって顔が変わり、魅せられている」
「学生時代にサークルで隠岐の島に行ったとき、定員オーバーで船が転覆、静かに静かに体が沈んでいく感覚が今も残っている」などと、
こもごも話した。 店は1階で3面がガラス。外にテラスがあり、犬の散歩の途中に立ち寄る人もいる。
温かくなったらテラスでやろう、となった。
第1回ハマブンカフェ 2018年11月24日午後 テーマは 「サードプレイス」
辻堂「ステージコーチ」にて





担当の鈴木が「自宅と職場以外に、くつろげる第3の場所が必要」という考えだとプレゼンテーションし、そのあと、
山本の司会で各自が発言した。男性からは「職住が離れているので、そういう場所を作るのは難しい」「居心地のいい場所は屋根裏部屋」
などの意見が出た。女性からは「友人と会うことが一番大事」「友人を自宅に招いて手作りのケーキで接待するときが楽しい」などという話が出た。
他に「『くどかれ上手』という言葉をどう思うか」「自分の宝は家族にはゴミか」などについて意見を交わした。場所がライブハウスなので、
室内には楽器が所狭しと置かれ、プレスリーやマリリン・モンローのポスターも。ワンドリンクが参加条件とあって、ビールやワインを飲む人もいて、しだいに盛り上がった。開始前には秋元和夫会員が縦笛「ケーナ」などを演奏、終了後に井上幸子会員がアリアを熱唱した。
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