横浜文芸の会・公式サイト | |||||
通称「ハマブン」横浜を拠点に文芸活動 地域への文化貢献を目指す | |||||
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選者の会で毎回話題にのぼる意見の中から、私が気をつけていることを書いてみます。 「同じ意味、連想させる言葉をつかうな」 前回の句会では (机 載せる)(ふる里 帰省)(青嵐 吹く) 俳句は十七音しかありません。もったいないです。 私が以前に作った句で説明します。 原句 春泥や動物園の坂の道 ←ただの説明 春泥の坂を上がりて動物園 ←「坂」と「上がりて」ほぼ同じ意味 春泥の坂をひといき動物園 ←お目当ての動物までのわくわく感を出しました 使いたい季語を歳時記で調べてみましょう。歳時記は是非用意していただきたいのですが、 なければグーグルで調べてもいいでしょう。 極暑 溽暑 の違いとか面白いですよ。 さて、6,7月の兼題は「跣」「夜」です。 「夜」は暗い、怖いなどを浮かべがちですが、 気分が明るくなるような楽しい「夜」もいいかもしれません。 「跣」は「気持ちがいい」「涼しい」という言葉を使わずに場面で表してみませんか。 皆さまのたくさんの投句をお待ちしています。 (星 伸予) |
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五七五は一個の詩である 俳句は連歌の発句が独立したものです。多くの方がご存じでしょう。 連歌は和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)をいろいろルールがありますが 連ねていくものです。 発句はその最初の上の句(五七五)になります。従って連歌の一部分となれば下の句(七七)に続きます。 しかし俳句として独立してからは、五七五で完結します。 そこで終わる。その17音のなかで一個の詩をつくるわけです。 短歌の上の句になってはいけません。 では一個の詩になっているのか、それとも七七を期待させるのか、 という感覚の違いは、個人個人の感性もありなかなか線を引きがたいこともあります。 それを明確にしてくれるのが「切れ」です。 前々回荒井さんが「切れ字」について解説してくれましたが、 切れを入れることによって独立性が分かります。どうやったら切れを入れられるか。方法を3つ紹介します。 前回の6-7月の投句者の句から例を引きます。 1.切れ字をいれる。代表的なものは「や」「かな」「けり」です。 (例)香水の今ひとふりの今宵かな 鳴き砂や裸足で家出したことも 2.上五または下五に他の部分と離れた感覚の季語を置く。 (例)徒跣ふろ場に続く古聞紙 言い淀む別れの言葉夜の蟬 3.用言(活用語)を終止形で遣う。中七で遣うとはっきり切れます。 (例)救急の音忽と消ゆ熱帯夜 古地蔵の前掛け白し更衣 一方で、切れを入れなくても一個の詩にすることは出来ます。 その場合は難しいですが、句が完結していると読み手に読んでもらえるようにすることが大事です。 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」芭蕉のあまりにも有名な生涯の終の句です。 切れはありませんが、見事に一個の詩として完結しています。 まずは五七五と作って、 17音で一個の詩となっているかどうか見定めてみましょう。 不安であれば、1.2.3.を参考にして修正してみましょう。 (折山正武) |
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季語と季節感 俳句に季語を入れるルールはだれでも知っているでしょうが、 実際にそれを入れて句を作るとなるとなかなか難しいものです。 なぜならば季語は単に入れるだけではなく一句に季節感を盛り込まなければならないからです。 【歳時記を見る】 最初に大事なことは歳時記を見ることです。 気になったら常に調べるように努めれば段々季語になじんできます。 たとえば、「麦」は夏の季語であり麦に関連した「麦茶、麦の秋、麦笛、麦飯、麦藁」など多くの季語がありますが 「麦を踏む、麦青む」は春の季語であり「麦蒔、麦の芽」は冬の季語です。自分の思いこみで季語を使って失敗することは私にもあります。 そこで歳時記を小型化した季寄せを常に携行するようにしています。 スマホで調べることもあります。 【季重なり】 次に句作をするとき、一句が季語の季節感を表しているかを確認することです。 一番多いケースが季語を二重に使ってしまっている場合です(「季重なり」と言います)。 同じ季節の季語を重ねて使うことは季節感を醸し出すということでは達成するかもしれませんが、 統一感がないなど別の観点からの問題が生じます。 また季節の違う季語と重ねて使うことは、それこそ季節感を損ねます。 ただし、季語は広範囲に設定されていますので、絶対重なってはいけないということはありません。 典型的な例が「月」です。月は秋の季語です。 月が出るのは秋だけではないので季節に合わせた月の季語が用意されていますし、 他の季語との取り合わせも可能です。しかしなおのこと一句に明確な季節感が求められてきます。 【天然の季節感】 季重なり以外で季節感を損なう事例は、我々の身辺が便利になったため大変多くなっていると思われます。 季節を問わずにいろいろな果物や野菜が売られ、活字や映像などの媒体で四季折々の情報が飛び込んできます。 我々の生活自体がそのような中にあるので、 うっかりそのまま季語として使ってしまうと季節感のない俳句となってしまう恐れがあります。 俳句では天然の生の季節感が求められますので注意が必要です。 (芦野信司) |